商品詳細
「こけしサイズ」
高さ 25 センチメートル、(9.84 インチ)
ヘッド幅 6.5 センチメートル (2.56 インチ)
底幅4.5cm、(1.77インチ)
※若干の誤差はご了承ください。
作家
梅木修一(うめきしゅういち:1929~)
系統:蔵王高湯系
師匠:金山文太郎
弟子:梅木直美/筒井良吉/高橋喜代司
〔人物〕
昭和4年3月18日、商業梅木金次郎三男として山形市内宮町横丁に生まれた。昭和18年3月男子国民学校を卒業後上京し、東京府中の日本製鋼武蔵野製作所に入所、終戦まで働いた。戦後山形に戻ると、母の姉の夫にあたる叔父金山文太郎に招かれ、弟子入りして木地の修業を始めた。
この頃は車のロクロや机、椅子の脚、警棒、盆、茶櫃等の日用雑器を挽き、こけしは作らなかった。金山の仕事を3年余続けたが、次第に景気が悪くなり、やむなくハッピーミシン木工部に転職を考えていたところ、山形県西置賜郡白鷹町鮎貝の金子伊助という人から勧誘があった。金子伊助は元車大工であったが、そのころは鮎貝で製材や木工建具を扱う木工所を経営していて、その職人を探していた。
修一はせっかく身に着けた技術を生かせるならと、昭和24年4月鮎貝に移り、金子伊助の木工所の職人となった。木工所にはほかに7人程の職人がいたが、ここで修一は新型こけしの木地を専門に挽いた。
鮎貝は朝日連峰の登山口に当たり、土産物としての新型こけしの需要があった。描彩はもっぱら土地の婦人たちが行った。ただ注文に追い付かず修一が描彩することもあった。このとき筒井良吉に木地の指導を行なった。
新型こけしを作るうちに、自分も独立してやってみたいという気持ちが強くなり、金子伊助の許しを得て、昭和30年春に山形に戻って市内鍛冶町で独立開業した。新型が主体であったが旧型こけし作りたいという気持ちが強く、旧型こけし試作を繰り返した。
昭和32年1月に市内泉町に工場を建てて移り、木地業を継続した。この時の弟子に高橋喜代司がいる。
昭和51年に山形のしばたはじめの勧めにより、岡崎長次郎の型を復元した。長次郎の遺族からも了承を得た。
昭和53年9月より名古屋こけし会が鈴木鼓堂会長蔵品を中心に梅木修一に継続的な長次郎型復元頒布を企画した。
主題...人物・人形
素材...木彫
商品の情報
カテゴリー: | おもちゃ・ホビー・グッズ>>>美術品>>>彫刻/オブジェクト |
---|
商品の状態: | やや傷や汚れあり |
---|
SIERRA DESIGN PENDLETON USA製 マウンテンパーカー
Samanthaブーティー
【極美品】グレース カシュクールマキシ丈デニムワンピース Dカンベルト フレア
ディノス JET SLIM BODY MAX ジェットスリムボディ
Fano Studios 2way スタンドカラーコート
phatrnk Pロゴ ロンT ③
1/64 U2 Ferrari フェラーリ